2016年度 主題聖句

 

聖書にもとづいて考えるとき、この世に生きる人間を大きく3つに分類することができます。ひとつ目は「自然の人」です(一コリ2:14)。「自然の人」とは、罪によって神から離れている人たちであり、その結果、神を知ることができない人たちです。「自然の人」は、霊の命を失っています。

 

ふたつ目は「肉の人」です(一コリ3:3)。「肉の人」とは、十字架の救い主イエス・キリストの贖いによって霊の命を回復したにもかかわらず、霊的に幼い状態にある人たちです。「肉の人」は、十字架の救い主イエス・キリストとの関係においては、依然として「乳飲み子」であると言えます(一コリ3:1)。

 

みっつ目は「霊に従って歩む人」です(ロマ8:4)。「霊に従って歩む人」とは、十字架の救い主イエス・キリストの贖いによって回復した霊の命の意味を心に刻んでいる人たちです。罪から解放された新たな存在として神の御心をわきまえる人たちです(ロマ12:2)。「霊に従って歩む人」は、神の愛と恵みに応えていこうとするなかで霊的に成長・成熟します。

 

使徒パウロは、クリスチャンに与えられている自由を享受しつづけるためには、十字架の救い主イエス・キリストに根ざしつづけることが不可欠であると考えていました。そして、聖霊に導かれて歩むことこそが十字架の救い主イエス・キリストに繋がりつづけるうえで肝心であると理解していました。だからこそ、「肉の業」と「霊の実」という言葉を用いて、肉の欲望に支配されることのないようにと勧めました。聖霊に従って歩むようにと助言しました。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラ5:16)。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラ5:22~23)。ガラテヤの姉妹兄弟たちへの使徒パウロの言葉は、今日のクリスチャンであるわたしたちにも向けられています。

 

長岡京教会は、神の御心によって1974年10月27日に乙訓の地に建てられました。現在、創立42年目の歩みと働きをなしています。長岡京教会はこれまで、十字架の救い主イエス・キリストの体の一部分として、聖霊に導かれることにどれだけ真摯に心をあわせてきたのでしょうか。聖霊に従うことにどれだけ真剣に祈りをあわせてきたのでしょうか。「霊の実」をどれだけ豊かに結んできたのでしょうか。いま一度、長岡京教会に繋がるひとりひとりとして、自らの信仰生活・教会生活を丁寧に見つめ直す必要があります。バプテスマを受けてクリスチャンとなったその日からいまに至るまでの日々を、あらためてじっくりと吟味しましょう。

 

わたしたちクリスチャンは、十字架の救い主イエス・キリストに倣って神の御心に生きる存在です。何よりもまず神の国と神の義を求める存在です。このことを喜び感謝してたがいに支えあいながら、聖霊の充満を祈り求めていきましょう。霊的に成長・成熟しつづける長岡京教会であってほしいと祈ってやみません。

 

シャローム!

 

Updated on Feb. 25, 2017

            主 の 祈 り ≫

 天にまします我らの父よ、
 ねがわくはみ名をあがめさせ
 たまえ。
 み国をらせたまえ。
 みこころの天になるごとく地にも
 なさせたまえ。
 我ら日用を、今日も与え
 たまえ。
 我らに罪をおかす者を我らが
 赦すごとく、我らの罪をもゆるし
 たまえ。
 我らをこころみにあわせず、
 悪より救い出したまえ。
 国とちからと栄えとは限りなく
 なんじのものなればなり。
             アーメン。

     ≪ 使 徒 信 条 ≫

 わたしは、天地の造り主、全能の
 父である神を信じます。

 わたしは そのひとりご、わたし

 たちの主、イエス・キリストを

 信じます。
 主は聖霊によってやどり、おとめ
 マリアから生まれ、ポンテオ・
 ピラトのもとで苦しみを受け、
 十字架につけられ、死んで葬られ、
 よみにくだり、3日目に死人の
 うちからよみがえり、天にのぼられ
 ました。そして全能の父である神の

 右に座しておられます。そこから

 こられて、生きている者と死んで

 いる者とをさばかれます。
 わたしは聖霊を信じます。きよい

 公同の教会、聖徒の交わり、罪の

 ゆるし、からだのよみがえり、
 永遠のいのちを信じます。

             アーメン。